今月発売のすばる六月号にエッセイが載っています。ご一読くださいませ。(2018.5.1)
HP全面リニューアル。まだ工事中ですのでご容赦のほどを……。(2018.5.1)
Segawa Shin
1974年 岩手県盛岡市に生まれる。
1986年 中学校入学。吹奏楽部に入部、デブだという理由でチューバを割り当てられる。
1987年 初一人旅。宇都宮より仙石線・気仙沼線・大船渡線・三陸リアス鉄道・山田線を経て盛岡市に至る。
1987年 初コミケ参加。東京流通センター最後の開催回であった。
1988年 このころ小説を書きはじめる。
1989年 高校入学。オーケストラ部と弓道部を兼部する。
1990年 このころカフカを知り衝撃を受ける。
1992年 大学入学。死にたいほど憧れた東京で輝かしい生活が始まるとこのときは信じていた。
1993年 このころ中上健次を知り衝撃を受ける。中上経由でフォークナーを知り衝撃を受ける。
1993年 初海外。新疆ウイグル自治区ウルムチ市よりバスにてカシュガル市に至る。
1993年 初北海道。釧路に上陸、バスと自転車で野付半島の先端に至る。
1994年 初ヨーロッパ。アイルランドのダブリン・ガルウェイ経由でアラン諸島に至る。
1995年 初沖縄。沖縄本島/石垣島経由で西表島の舟浮集落に至る。
1995年 初東南アジア。ベトナムとラオスを周遊し、戦後50年の終戦記念日をビエンチャンで迎える。
1996年 三軒茶屋の天道流合気道道場にて合気道を始める。
1998年 医師免許取得。
1999年 茨城県取手市に転居。心の故郷となる。
2001年 茨城県土浦市に転居。心の故郷となる。
2002年 小児科専門医取得。
2003年 研究生活に入る。
2005年 初アメリカ。よりにもよってソルトレイクシティ。やむを得ず市街電車を乗りつぶす。
2007年 太宰治賞授賞。博士号取得。合気道三段允可さる。
2007年6月24日 元カノ(現妻)と出会う。
2008年 月島に転居。ここも心の故郷となる。
2009年 結婚。大熊ワタル率いるシカラムータのメンバーによる演奏を依頼、ものすごいパーティーになる!
2010年 新婚旅行。ビルバオよりFEVEを乗り継いでサンティアゴ・デ・コンポステラに至る。
2011年 長男生まれる。一文字・二音節・サンズイの名前を付ける。
2014年 イェール大学に研究の職位を得て渡米。コネチカット州に居を定める。
2016年 長女生まれる。一文字・二音節・サンズイの名前を付ける。
SOY! 大いなる豆の物語
筑摩書房 2015年3月
書き下ろし長編小説。
ある晩夏の午後のこと、埼玉県和光市に住まう27歳の無職青年・原陽一郎のもとに世界有数の食品流通会社、Soyysoyaからの郵便が届けられる。半年前に逝去した前CEO、コウイチロウ・ハラは南米パラグアイ共和国に移民したハラ家の二代目であり、岩手県の山間部にあるかつての豪農であり陽一郎の本家でもある原家の傍系だというのである。それは本当のことなのだろうか?
そんな壮大な話を持ち込まれるような身の上だとは思われなかった。身心を病んで新卒で入ったコンピューター会社を辞めてからは、日払いのバイトに精を出しつつ、目端の利いた友人に誘われてTAKAMAGAHARAなる人気コンテンツの二次創作ゲームを作製することに没入するのが生活のほとんどすべてとなっていたからである。詐欺と見まがうばかりの壮大な話におののきつつも、莫大な謝金にも心を動かされ、陽一郎はおのれのルーツを探りはじめる。人の話の中に、古い書物の中に、インターネットの向こうに。......(続きを読む...)
書き下ろし長編小説。
ある晩夏の午後のこと、埼玉県和光市に住まう27歳の無職青年・原陽一郎のもとに世界有数の食品流通会社、Soyysoyaからの郵便が届けられる。半年前に逝去した前CEO、コウイチロウ・ハラは南米パラグアイ共和国に移民したハラ家の二代目であり、岩手県の山間部にあるかつての豪農であり陽一郎の本家でもある原家の傍系だというのである。それは本当のことなのだろうか?
そんな壮大な話を持ち込まれるような身の上だとは思われなかった。身心を病んで新卒で入ったコンピューター会社を辞めてからは、日払いのバイトに精を出しつつ、目端の利いた友人に誘われてTAKAMAGAHARAなる人気コンテンツの二次創作ゲームを作製することに没入するのが生活のほとんどすべてとなっていたからである。詐欺と見まがうばかりの壮大な話におののきつつも、莫大な謝金にも心を動かされ、陽一郎はおのれのルーツを探りはじめる。人の話の中に、古い書物の中に、インターネットの向こうに。
見えてきたのは、これまで顧みることもなかったおのれが本貫の岩手、そして東北という土地の複雑な歴史であり、そのはざまに姿を消した原四郎なる遠縁の人間の存在であった。おそらくは複雑な事情のために原四郎は故郷を出奔し、仙台に東京にとその足取りを移してゆく。この探求の途上に、大豆という食品が見え隠れしはじめる。菜食が主であった日本の食生活に欠くことのできなかった裏方として、寒冷な東北の地にも満州という虚構の国家にも日本人が移民したパラグアイの土地にもよく実る作物として、そしてSoyysoyaが取り扱う主要産品として。
陽一郎の探求は遅々として進まないながら、東北のそして日本国の来歴、満州のそして南米への移民、米・大豆・雑穀、そして増大する一途の世界的な食料流通にとさまざまなものを探り当ててゆく。そしてそれは、陽一郎自身が没入してきたコンピューターの世界、世界に網をかける情報のネットワークとも重なり合ってゆく。はたしてその果てに陽一郎が幻視したものは、いったいなんであったのか?
大豆という偉大な種子を狂言回しとして語られる、探求の、そして喪失と再生のものがたり。帯の推薦文を池澤夏樹先生に書いていただきました。
大豆。
古字に菽(シュク)、和名に万(ま)米(め)、学名にGlycine max。東北アジアを起源とするマメ科の一年草。植物としてはまったく異例なことに、成分の三割を蛋白質が、二割を脂質が占める。発酵させれば味噌となり醤油となり、絞れば油脂となり、凝固させれば豆腐となる。五千年にわたり人類の食に寄り添い、五穀の一つに数えられながら、世界のいかなる土地においても主食となることのなかった慎ましやかな食の裏方。
考えていただきたい、米を食わぬ日はあれど大豆を口にせぬ日が一日たりとてあっただろうか。大豆は食糧となり油脂となり調味料となり飼料となって、あらゆる食に忍び込む。にもかかわらず、風に揺れる金の稲穂は脳裏に浮べど、大豆がいかなる実りを見せるものか、思い描けるであろうか。この力強い食材の来歴を、想像できるであろうか。
人よ、いまいちど想起せよ。淡黄色の慎ましやかな種子を。
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ゲノムの国の恋人
文庫化・小学館文庫 2016年11月
書き下ろし長編小説。
若き遺伝生物学者タナカは、人生に行き詰まりを感じていた。アメリカの大学で博士号を取得してバイオベンチャー企業に就職し、順風満帆であるかに思えた自分の人生は、ほんの数年で転変を迎えていたのである。
(続きを読む...)
書き下ろし長編小説。
若き遺伝生物学者タナカは、人生に行き詰まりを感じていた。アメリカの大学で博士号を取得してバイオベンチャー企業に就職し、順風満帆であるかに思えた自分の人生は、ほんの数年で転変を迎えていたのである。苛烈な競争のなかで会社は縮小の一途を辿っており、このままでは自分もいつ首を切られるかわからない……。そんなタナカに奇妙なオファーが舞い込んできた。資金は限度なし、報酬は巨額。ただし、あらゆる解析はその国に赴いて行うという奇妙な条件付きで。
悩んだ末に依頼を引き受けたタナカは、アジアの亜熱帯に位置する小国に赴く。川の中州に拓かれた経済特区において約束通りにあらゆる機材は揃えられ、解析を邪魔するものは一切ない。その目的は、この国のとあるVIPのために「遺伝学的に完璧な」花嫁を選び出してくれということであった。驚くべきことに、花嫁候補は七人に及んだ。この若く美しい少女たちの遺伝子解析を行い、依頼主のゲノム情報とのマッチングを行うことで「もっとも遺伝的に理想的な」花嫁候補を一人選び出す……。奇怪な依頼ではあったが、タナカは持ち前の生真面目さと培ってきた遺伝生物学の知識でもって、ゲノムなる遺伝情報の総体を解き明かしてゆく。染色体分析という古典的な手法から、次世代シークエンサーという最先端の技術までを駆使して。
その結果タナカが探り当てたのは、通り一遍の結論ではなかった。依頼主の血縁に関わる驚くべき秘密、少女たちのゲノムに潜んでいた思いがけぬ問題。そしてタナカの身辺に迫るきなくさい陰謀……。はたして、ゲノムは、理想の花嫁を指し示してくれるのだろうか。
筆者自身の遺伝学研究者としての知識ならびにバックパッカーとしての経験を動員して描いた、初の科学小説である。
「本件にかかる資金として、取り急ぎ百万米ドルの用意があると言うことです」
「フハッ」
タナカは目を?いた。いかに円高が進んだところで、それは、一億円規模の予算ということになるのではないか?
「タナカ先生にお支払いするギャランティーとは別に、純粋に研究費としての金額だそうです。そして、その、不足であれば、三倍程度の上積みも可能だということで……」
タナカの頭が揺らぐ。この先、死ぬまで研究者人生を続けたところで、そんな資金を獲得できることは絶対にないであろうことは、したたかに酔っ払ったタナカの頭でも理解ができた。そうそう、なにも案ずることはないのだよ、初老の男は満面の笑みを浮かべてふたたび籐椅子から立ちあがり、タナカのかたわらに立つと、電卓を取り出した。
「5,000,000」
液晶は、確かにそのような数字を示していた。酔いの中に昏倒するタナカに残った、その夜最後の記憶である。
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チューバはうたう
文庫化・小学館文庫 2016年9月
第23回太宰治賞受賞の表題作を含む中編小説を三編収録。
チューバという巨大な金管楽器についての挑発的な問いかけから小説ははじまる。中学校のブラスバンド部で割り当てられたという偶然をきっかけに、この不格好な楽器に魅せられてしまった女性を主人公に据えた物語。(続きを読む...)
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第23回太宰治賞受賞の表題作を含む中編小説を三編収録。
〇チューバはうたう
チューバという巨大な金管楽器についての挑発的な問いかけから小説ははじまる。中学校のブラスバンド部で割り当てられたという偶然をきっかけに、この不格好な楽器に魅せられてしまった女性を主人公に据えた物語。取り立ててかっこいいこともなく、人に話せば怪訝な顔をされ、親にも彼氏にも理解されず、仕事との兼ね合いは大変で、それでも彼女はこの楽器に組み付いていくことをやめようとしない。
ブラスバンドにもオーケストラにも属さず、「インディペンデントの」奏者としてチューバを吹き続けることを選んだ彼女は、やがて凄腕のクラリネット吹きをはじめとしたプレイヤーたちとバンドを組んで演奏するという縁に恵まれる。彼女のチューバはその世界を広げてゆくが、それでも彼女は迷い、自問し、しかしチューバを吹き続ける。チューバで響かせることのできる、あらゆる音楽を。
チューバは実は自在な楽器なのだ、かるがると音を操るのだ、高音域では滑らかにつややかに歌を歌い、低音域ではあたりの空気いっさいを響かせ、弾き手も聞き手をも包み込み、時にそれは大地の鳴動に連なるのだ。
嘘だとお思いか?
ならば私が吹いてやろう。
〇飛天の瞳
あと二日で旅は終わる、そして日常が回復してくる。
南洋の地を旅していた主人公は、ふとした気まぐれから旅の最後に船に乗って密林の川沿いに建てられたホテルを訪れる。そこはかつて日本人たちが鉱山や農園を拓き、不幸な戦争の場ともなり、そして主人公の祖父にもかすかな縁のある土地であった。さびれきったと見えたホテルであったが、レストランのディナーにはキノコマニアの建築家や蝶々好きの老夫妻、そして多彩な打楽器を駆使してあらゆる音楽を奏でる凄腕のバンドマンが集い、そこで主人公は祖父の来歴に連なる、かすかな残り香をかぐことになる。
改行のない緊密な文体で綴られた、半世紀の歴史のものがたり。
器用貧乏の典型だったようで、ゴムの仲買や鉱山の人夫、手配師めいたことまでしていたらしいが、木材の投機に手を出して一財産を失ってからは、結局のところは芸事好きが身を助けて南洋の島々を漂白していたらしい。高雄、ダバオ、ペナン、セレベス、バタビヤ、コーラルンプル、そんな地名を祖父のかさついた息から幾度聞いたかわからない。……ゴム園で働きよるもんば集めてさあ、演芸会ばしたっさ。オイは器用やったけんね、そいはもう、重宝されたさ。三味線とかハモニカとかアコーデオンとかさ、もう、なんでんかんでんしよったけんね。書き付けられたものを繰り返し音読しているかのように、祖父は何度でも語ったものだ、濃度二十五パーセントの酸素の助けを借りながら。
〇百万の星の孤独
二〇〇六年四月三十日、よく晴れた春の日のこと、かつてタングステン鉱の産出で栄えた北東北の小さな町に、プラネタリウムがやってくる。桜祭りのイベントに呼ばれたその男は、たった一人でプラネタリウムを作製したのだ。祭りにはいろんな人々が集ってくる。地元の青年会団長の田波、自転車旅行中の榎田青年、鉱物資源研究所の所長を勤めていた喜多見老人とシングルマザーの家政婦・平塚彰子、モテない大学生トリオ、友だちとケンカ中の小学生、蜷川秋穂、秀才女子高生の赤瀬川怜仁とボンクラ男子高生の中田耕介、元パレスチナゲリラの中年養蜂家、御木本泰嗣と家出少女の叶律紀。などなど。一人の男が心血を注いで作り上げてきた人工の星空は、人々にさまざまな思い出をよみがえらせ、あるいは未来への思いをうながし、さまざまな感情を惹起する。そして、プラネタリウムを作る男は……?
十数人の人生がある春の一日に交錯する群像劇。
「投影する星の数が多いんです。タネ明かしすれば、見えないはずの星まで投影してる」
「それって、ひょっとすると」
「十一等星まで投影してます。総数で百万個」
ゲノムの国の恋人
小学館 2013年7月
書き下ろし長編小説。
若き遺伝生物学者タナカは、人生に行き詰まりを感じていた。アメリカの大学で博士号を取得してバイオベンチャー企業に就職し、順風満帆であるかに思えた自分の人生は、ほんの数年で転変を迎えていたのである。
(続きを読む...)
書き下ろし長編小説。
若き遺伝生物学者タナカは、人生に行き詰まりを感じていた。アメリカの大学で博士号を取得してバイオベンチャー企業に就職し、順風満帆であるかに思えた自分の人生は、ほんの数年で転変を迎えていたのである。苛烈な競争のなかで会社は縮小の一途を辿っており、このままでは自分もいつ首を切られるかわからない……。そんなタナカに奇妙なオファーが舞い込んできた。資金は限度なし、報酬は巨額。ただし、あらゆる解析はその国に赴いて行うという奇妙な条件付きで。
悩んだ末に依頼を引き受けたタナカは、アジアの亜熱帯に位置する小国に赴く。川の中州に拓かれた経済特区において約束通りにあらゆる機材は揃えられ、解析を邪魔するものは一切ない。その目的は、この国のとあるVIPのために「遺伝学的に完璧な」花嫁を選び出してくれということであった。驚くべきことに、花嫁候補は七人に及んだ。この若く美しい少女たちの遺伝子解析を行い、依頼主のゲノム情報とのマッチングを行うことで「もっとも遺伝的に理想的な」花嫁候補を一人選び出す……。奇怪な依頼ではあったが、タナカは持ち前の生真面目さと培ってきた遺伝生物学の知識でもって、ゲノムなる遺伝情報の総体を解き明かしてゆく。染色体分析という古典的な手法から、次世代シークエンサーという最先端の技術までを駆使して。
その結果タナカが探り当てたのは、通り一遍の結論ではなかった。依頼主の血縁に関わる驚くべき秘密、少女たちのゲノムに潜んでいた思いがけぬ問題。そしてタナカの身辺に迫るきなくさい陰謀……。はたして、ゲノムは、理想の花嫁を指し示してくれるのだろうか。
筆者自身の遺伝学研究者としての知識ならびにバックパッカーとしての経験を動員して描いた、初の科学小説である。
「本件にかかる資金として、取り急ぎ百万米ドルの用意があると言うことです」
「フハッ」
タナカは目を?いた。いかに円高が進んだところで、それは、一億円規模の予算ということになるのではないか?
「タナカ先生にお支払いするギャランティーとは別に、純粋に研究費としての金額だそうです。そして、その、不足であれば、三倍程度の上積みも可能だということで……」
タナカの頭が揺らぐ。この先、死ぬまで研究者人生を続けたところで、そんな資金を獲得できることは絶対にないであろうことは、したたかに酔っ払ったタナカの頭でも理解ができた。そうそう、なにも案ずることはないのだよ、初老の男は満面の笑みを浮かべてふたたび籐椅子から立ちあがり、タナカのかたわらに立つと、電卓を取り出した。
「5,000,000」
液晶は、確かにそのような数字を示していた。酔いの中に昏倒するタナカに残った、その夜最後の記憶である。
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我らが祖母は歌う
朝日新聞出版 2010年12月
書き下ろし長編小説。
ある夏、富山の高岡から祖母がやってくる。息子夫婦のところで一夏を過ごすために。
赴くのは東京湾岸に拓かれた美しき街である。街は高い塀で囲われ、厳密な審査と高額な分譲価格でもって住まう住人を厳しく選別しているが、......(続きを読む...)
ある夏、富山の高岡から祖母がやってくる。息子夫婦のところで一夏を過ごすために。
赴くのは東京湾岸に拓かれた美しき街である。街は高い塀で囲われ、厳密な審査と高額な分譲価格でもって住まう住人を厳しく選別しているが、高級官僚として功成り名遂げた息子にはむしろふさわしい。街路も公園も専属のスタッフによって美しく完璧に整えられたこの街で、我らが祖母は孫たちの世話をし、共働きで忙しい息子夫婦を支えて慎ましく過ごす。ときに、古い時代の人間には理解が及ばないさまざまな違和感を覚えもするのだが、我らが祖母は諦念とともにすべての物事を受け入れていく。
そもそも祖母は自分の頭脳と肉体に衰えが忍び寄っていること、記憶や思考が時にほどけて曖昧になってしまうことを自覚している。新しい時代の新しい人々には新しい作法があるのだ、と理解しながらも、それでも祖母の目と耳は美しき街の奇妙なゆがみを一つ一つ拾い上げてゆく。円満に見えながら背徳のにおいを漂わせる息子夫婦。ネットゲームに夜も昼も明けない次男。神経質なほどに細かくあらゆるところに定められた街の規則。そして、ある女子中学生の疾走。老いた祖母に二心なく接するのは、まだ無邪気な年ごろの末娘だけである。
さまざまなものごとが理解の範囲を超えたとき、ときに、祖母の口からは歌がまろび出る。唱歌、歌曲、流行歌、戯れ歌、労働歌、70年以上の年月のあいだに覚えてきた歌われてきた歌は孫娘に奇妙な驚きを持って受け止められ、その口をついて歌われる。もちろん、それは美しき街に何の影響も与えはしない。ときに街のほころびがあらわになり、奇怪な事件がある解決を迎えはしても、美しき街は微動だにせず、歌はだれも聞く者なく大気に溶けて消えてゆく。ただ、孫娘の幼い耳を除いては。
本作では老女の一人称の視点から、ある街の様相を描こうと試みている。そこには21世紀初等の日本国が抱える様々な問題が存在しているはずだ。それが祖母の目にはどのように映るのか、寄り添ってみていただければ幸いである。
……まあ、本当に、すてきねえ。ありがとうございます、喜美子さんがにこやかに笑う。こちらも管理事務所の方が手を入れてくれるんですよ。夏場は水撒きと芝刈りも込みで。ちょっと追加料金はかかるんですけど。賢次郎は誇らしげに笑う。敷地だけで三百平米あるからな。都内じゃまず、二度と出ないだろうな。ああ、母さん、芝は踏まないでくれよ。
賢次郎がドアの前に立つ、するとかちりと音がする。あら、あらら。鍵はどうしたの?これ、電子ロックなんだ。ICチップに反応してオートで錠が開く。賢次郎は胸ポケットからカードを出して見せてくれる。防犯も兼ねてるんですよ、お義母さま。錠の開け閉めも管理事務所にデータが行くようになってまして、日中とか、変な時間に鍵が開くと携帯に連絡を下さるんですの。まあ、まあ……。本当に、本当に、すごいのねえ、たまげたものだわ、なんとここは、周到に気が配られているのだろう。私の家とはなにもかにもが違っている。でもそれは当然のことだろう、なにしろ私よりも宗之輔さんよりも年寄りの家なのだから。宗之輔さんが意気揚々と購入し、大工さんを入れて、お風呂場のタイルを張り替えて、水周りを直して、それでもどこかから軋む音が聞こえ、どこかから長い時間を経たにおいがそっと漂ってくる私の家。
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ミサキラヂオ
早川書房 2009年3月
書き下ろし長編小説。
「想像力の文学」第一回配本。
太平洋につきだした半島の先端に拓かれた町、ミサキ。広大な海に面しているほかはこれといった特徴もないありふれた地方都市だったはずのミサキに、不意に風が吹きはじめた。(続きを読む...)
ミサキラヂオ
早川書房 2009年3月
書き下ろし長編小説。「想像力の文学」第一回配本。
太平洋につきだした半島の先端に拓かれた町、ミサキ。広大な海に面しているほかはこれといった特徴もないありふれた地方都市だったはずのミサキに、不意に風が吹きはじめた。町いちばんの水産物加工会社社長の気まぐれが、小さなコミュニティラジオを生み出したことで。
なにしろ奇妙なラジオではあった。映画もテレビもネットも古くさい技術になってしまって久しい二十一世紀も半ばになって、いまさらラジオというアナクロな技術が大真面目に開局を宣言されたからである。なにしろ奇妙なラジオではあった。都落ちしてきた録音技師にフリーターのDJ青年、兼業小説家の土産物店主に演歌狂いの中年実業家、投稿マニアの男子高校生に詩人の女子高生、ひきこもりの音響作家に老人ホームに入居している異能の老人たち、小さな町に潜んでいたあまたの才人奇人が集い来ては思い思いの音を放つ場となったからである。そしてこれこそは、本当に奇妙なラジオであった。ミサキの埠頭にあるスタジオから放たれる電波はいったいどこで道草を食うものだか、ときにひどく遅れてラジオのスピーカーを響かせたからである。五分前、二時間前、数日前、数週間前に放たれた音をミサキの人々は聞くこととなり、笑い、呆れ、困惑し、へんなラジオだねえとつぶやきあった。
この小さなコミュニティラジオ局をたまさかの場として、二十人を超える登場人物の人生が交錯しあい、ときに火花を散らし化学反応を起こし、なにか新しいものが生まれ出る。2050年の春から一年をかけてミサキという土地を舞台に展開される、大いなる奇蹟の、あるいは矮小な偶然のものがたり。
春の夜、間もない深夜〇時の放送終了を前にラジオは歌い続ける。今この瞬間にも、ミナトの崖っぷちのスタジオから十ワットに抑えられた送信出力の及ぶ限り、ミサキの津々浦々へとあたかも月光のごとく星々の光りのごとくに電波は降り注ぎ、またもどこかのラジオのアンテナが電波を拾い上げてコイルは増幅しスピーカーは振動して新たな音が生まれ、誰が聴くとに拘らずミサキラヂオは鳴り響く。ときに語りときに歌い、ときに雑音を交えて時間をずらし、ぬけぬけと過ぎ去ってしまった時代の音の残り香を拾い上げながらもミサキラヂオは響き続ける。そしてどんなにしっちゃかめっちゃかに音が流れようとも、深夜〇時になればラジオは短い挨拶ののちに沈黙し、早朝五時までの深い眠りに落ちる。
??夜も更けて参りました。今晩の放送はこれで終了いたします。みなさん、おやすみなさい。二〇五〇年五月十八日午前〇時。こちらはミサキラヂオ、JOZZ3RC-FM、82.8ヘルツです。
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チューバはうたう
筑摩書房 2008年3月
第23回太宰治賞受賞の表題作を含む中編小説を三編収録。
チューバという巨大な金管楽器についての挑発的な問いかけから小説ははじまる。中学校のブラスバンド部で割り当てられたという偶然をきっかけに、この不格好な楽器に魅せられてしまった女性を主人公に据えた物語。(続きを読む...)
第23回太宰治賞受賞の表題作を含む中編小説を三編収録。
〇チューバはうたう
チューバという巨大な金管楽器についての挑発的な問いかけから小説ははじまる。中学校のブラスバンド部で割り当てられたという偶然をきっかけに、この不格好な楽器に魅せられてしまった女性を主人公に据えた物語。取り立ててかっこいいこともなく、人に話せば怪訝な顔をされ、親にも彼氏にも理解されず、仕事との兼ね合いは大変で、それでも彼女はこの楽器に組み付いていくことをやめようとしない。
ブラスバンドにもオーケストラにも属さず、「インディペンデントの」奏者としてチューバを吹き続けることを選んだ彼女は、やがて凄腕のクラリネット吹きをはじめとしたプレイヤーたちとバンドを組んで演奏するという縁に恵まれる。彼女のチューバはその世界を広げてゆくが、それでも彼女は迷い、自問し、しかしチューバを吹き続ける。チューバで響かせることのできる、あらゆる音楽を。
チューバは実は自在な楽器なのだ、かるがると音を操るのだ、高音域では滑らかにつややかに歌を歌い、低音域ではあたりの空気いっさいを響かせ、弾き手も聞き手をも包み込み、時にそれは大地の鳴動に連なるのだ。
嘘だとお思いか?
ならば私が吹いてやろう。
〇飛天の瞳
あと二日で旅は終わる、そして日常が回復してくる。
南洋の地を旅していた主人公は、ふとした気まぐれから旅の最後に船に乗って密林の川沿いに建てられたホテルを訪れる。そこはかつて日本人たちが鉱山や農園を拓き、不幸な戦争の場ともなり、そして主人公の祖父にもかすかな縁のある土地であった。さびれきったと見えたホテルであったが、レストランのディナーにはキノコマニアの建築家や蝶々好きの老夫妻、そして多彩な打楽器を駆使してあらゆる音楽を奏でる凄腕のバンドマンが集い、そこで主人公は祖父の来歴に連なる、かすかな残り香をかぐことになる。
改行のない緊密な文体で綴られた、半世紀の歴史のものがたり。
器用貧乏の典型だったようで、ゴムの仲買や鉱山の人夫、手配師めいたことまでしていたらしいが、木材の投機に手を出して一財産を失ってからは、結局のところは芸事好きが身を助けて南洋の島々を漂白していたらしい。高雄、ダバオ、ペナン、セレベス、バタビヤ、コーラルンプル、そんな地名を祖父のかさついた息から幾度聞いたかわからない。……ゴム園で働きよるもんば集めてさあ、演芸会ばしたっさ。オイは器用やったけんね、そいはもう、重宝されたさ。三味線とかハモニカとかアコーデオンとかさ、もう、なんでんかんでんしよったけんね。書き付けられたものを繰り返し音読しているかのように、祖父は何度でも語ったものだ、濃度二十五パーセントの酸素の助けを借りながら。
〇百万の星の孤独
二〇〇六年四月三十日、よく晴れた春の日のこと、かつてタングステン鉱の産出で栄えた北東北の小さな町に、プラネタリウムがやってくる。桜祭りのイベントに呼ばれたその男は、たった一人でプラネタリウムを作製したのだ。祭りにはいろんな人々が集ってくる。地元の青年会団長の田波、自転車旅行中の榎田青年、鉱物資源研究所の所長を勤めていた喜多見老人とシングルマザーの家政婦・平塚彰子、モテない大学生トリオ、友だちとケンカ中の小学生、蜷川秋穂、秀才女子高生の赤瀬川怜仁とボンクラ男子高生の中田耕介、元パレスチナゲリラの中年養蜂家、御木本泰嗣と家出少女の叶律紀。などなど。一人の男が心血を注いで作り上げてきた人工の星空は、人々にさまざまな思い出をよみがえらせ、あるいは未来への思いをうながし、さまざまな感情を惹起する。そして、プラネタリウムを作る男は……?
十数人の人生がある春の一日に交錯する群像劇。
「投影する星の数が多いんです。タネ明かしすれば、見えないはずの星まで投影してる」
「それって、ひょっとすると」
「十一等星まで投影してます。総数で百万個」
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